近畿編
万葉時代の日本の中心平城京はこの歌からも分るように経済的にも文化的にも栄えていたと思われます。
近畿とは現在の奈良県へ通じる道を持つ畿内と呼ばれる区域に当たります。
滋賀県には一時近江の都があり、大阪には難波の宮が、京都には恭仁京があり、和歌山県、三重県には天皇の行幸の地があるように平城京を取り巻く区域は、天皇はじめ官人たちの往来が多く、自然万葉の歌も多く残されています。
岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(巻2-141・142)
有名な有間皇子の絶唱の歌も 斉明天皇の紀温湯行幸中、謀反の罪を着せられた皇子が白浜に護送される途中、和歌山県の岩代で詠んだものです。万葉人の生き方や喜怒哀楽を知る上にも歩いてみたい万葉の故地がたくさんある区域でもあります。
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
小野 老 (巻3-328)
三重県答志島は鳥羽湾の北東2、5kmに位置し、人口約3000人 漁業中心の島で鳥羽の佐田浜港から船で25分、本土の喧騒を忘れさせる静かなたたずまいとあたたかな人情、豊かな海の幸に心安らぐ旅をすることができる。
鳥羽城主、九鬼嘉隆が関ヶ原の戦いで敗れ自刃した首塚、胴塚があり 鳥羽湾の絶景を一望できる
持統天皇は692年(持統6)3月伊勢に行幸した。天皇の伊勢行幸はこのときが最初と言われている。
万葉集は次のように記録している
いせのくに いでま みやこ かきのもとあそみひとまろ
伊勢国に幸しし時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌
ふなの をとめ
あみの浦に 舟乗りすらむ 娘子らが 玉藻の裾に 潮満つらむか (巻1-40)
くしろ
釧つく たふしの崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ (巻1-41)
しまみ いらご しまへ
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を (巻1-42)
答志島 万葉の島に海の幸を求めて 2007/12/7~8


島民の鎮守と大漁祈願を司る八幡神社の神橋を渡った右手に万葉歌碑がある。 日本最古の歌集『万葉集』の代表的歌人 柿本人麻呂 によって答志島が詠われていることを町の誇りとし答志町文化保存会が後世に伝えるため昭和47年に建立された旨が副碑に刻まれている。

西行さんの全国行脚は知っていたが此処まで旅をされていたとは。。。頭の下がる思いでした。 晩年の一時期伊勢の二見が浦に止住したことがあり、そのとき詠まれた歌ではないかとのことです。他に3首あるそうです。

ホームページ作成にあたり下記の資料を参考にさせていただきました
万葉集 桜井満訳注 旺文社
万葉の歌 人と風土 (東海編)
万葉の旅(中) 犬養孝著
答志島と渥美半島の伊良湖岬との間に位置する神島は三島由紀夫の小説 『潮騒』 の舞台になった島で人麻呂の歌が題名の原点との見方もある
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を (巻1-42)
先にあげた持統天皇伊勢行幸時に都に留まっていた人麻呂の一連の歌3首の最後の歌である。伊良湖といえば現在、渥美半島の先端である。そこは三河国に
属している。といって伊勢国にも伊良虞の地名はないが、3首の歌の状況から見て今日、答志島との間に位置する神島が有力視されている。答志の浜から望む
島の形は美しく その名の如く際立っている。 歌に登場する妹は誰か確かでないが人麻呂が都にあって思いを馳せる女官のひとりだったかもしれない ヽ(^^)(^^)/